うめぞーの山登りブログ

山登り大好きオヤジの回顧録です。

山と健康(命の大切さ)

(o´ノωノ`o)コンニチ…ヽ(o´・∀・`o)ノワァ♪
ご無沙汰しています。うめぞーです。

な~んか今回のタイトル、ちょっと重いですが実はとりとめのない話をしたくて書きます。
なので気楽に読んで頂ければ幸いです。

すでにこのブログを読んでいただいている方は私が昨年死にかけたことをご存知だと思いますがよくよく考えればそれまでに私、何回も死にかけていました。
ここではそんな私の体験や家族のことも書きながら皆様に少しでも命の貴さをご理解いただければ幸いです。

まず、私は子供の頃から活発(いい言い方ですが要は落ち着きの無い子供でした。)で夏も冬も関係なく外で遊び回るような子供でしたが一番最初に経験した命の危険は小学校4年生の夏でした。
地域が特定されるのですが地方にはそれぞれその土地の神様がおられてある地域ではその神様は鯉でした。
そうとは知らない私はその地域の川で鯉を獲っていました。
獲っていたと書いたのは私は釣りではなくヤス(4本や3本の穂先がついた海で使うような簡易銛のこと。)で川底に潜り鯉をついていたんですね。
友達やいとこと行ってたのですが川って急流のそばには必ず澱みがあり、そこは流れが穏やかなため鯉がよくいるんです。
当然そんな鯉を狙って見事に大きな鯉をゲットしたのですが・・・・行きはよいよい帰りは怖いという童謡がありましたがまさしくその通りで行きは流れに乗ってたまり場に行けたのですが帰りはその水路を逆走しなければならず(下記図参照)子供のチカラでは流れに逆らって戻ることが出来ず途方にくれましたが幸い上の方はテトラポットのおかげで空気があったので息継ぎはできるのですがこのままでは死んでしまうのでテトラポットの隙間(テトラポットとは言え川にあるやつなので大きさはせいぜい40~50cm程の小さなものです。)から脱出しようと思ったのですが・・・動くことは動くのですが体を出すには隙間が少なすぎるので川底から伸び上がるようにジャンプしてテトラポットを押しのけようとします。
水中メガネを頭に乗せて怪我をしないようにチャレンジする事数十回、いい加減疲れてきた頃やっとこさ石が動いてとりあえず頭だけは出せたので友達に引き上げてもらおうとしたところ子供のチカラではどうすることも出来ず結局そばの畑で農作業をされていた方をいとこが呼んできてくれました。
大型のワイヤーカッターなどを持ってこられて約1時間半ほどかけて助けてくださいました。
最初は「良かったな~」「はい、ありがとうございました。」などと和やかな雰囲気でしたが私たちが泳ぎに来たのではなく鯉を取りに来たと知ったその方はいきなり鬼の形相になり「この、ど阿呆、罰当たりが~~」と怒鳴り、げんこつで全員頭をどづかれました。(当たり前のことです。)
でも、その後二度とするなよと言ってからご自分の畑で取れたスイカを振舞ってくださいました。
本当にあの時助けていただいてなかったら今頃こんな回顧録を書いていなかったでしょう。
ありがとうございました。
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次に死にかけたのは同じ年の冬です。
皆さんはゲイラカイトってご存知ですか?凧なんですがこれが出たときは画期的な代物でそれまでは凧と言えば奴凧か角凧しかなく水に弱く風を上手く受けないとすぐに落ちてしまうのと上手く風に乗せるのが大人でも難しく大概は走り回る印象しかないんです。(ゲイラカイトはこんな奴)
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こんな奴

周りの友達はみんな当然のようにゲイラカイトに移行していく中、貧乏な家庭だった私は買ってもらうこともできず悔しい思いをしていました。(このタイプで当時の金額は1000円ほど、ちなみに子供の小遣いなどはほとんどなかった時代で100円もあれば結構なお菓子が買えました。)
ところがそんな私を不憫に思ったのか母がある日私をおもちゃ屋に連れて行き、「好きな凧を買い。」と言ってくれました。
それでも躊躇する私に母は「そやな~他の子と同じやったら間違えるな~」と言ってスカイレーダというゲイラカイトの中でも高級な真紅の(センターは白色)凧を買ってくれました。(金額は確か2000円ぐらいした。)
有頂天の私はその日から毎日友達と凧揚げ大会を開いていました。友達も「ええなあ~その凧」と絶賛でますます有頂天の私はみんなに「もっとタコ糸を繋げてタコが見えんようになるまで揚げようや~」と言ってタコ糸をどんどんつなぎます。
当然ですが上空に行けば行くほど浮力が上がり子供のチカラではだんだん抑えることが厳しくなってきます。
やがて予想通り糸が切れてかわいそうなスカイレーダはフラフラと山の方に飛んでいきます。
私と友人は「こりゃ大変」と大慌てで自転車に飛び乗り後を追いかけます。
隣の学区まで飛ばされた凧は造成地の上にある松ノ木にひっかかりましたので友人と二人で山に向かいます。
やがて目的地の松ノ木に到着した私は友人を木の下に待たせて松ノ木を登り始めます。
やっと凧を回収して下の友人に渡した私は下りようとしたのですが松ノ木は意外と脆いと知らず木の枝を折ってしまいそのまま下へ落下しました。
落下した先は造成地へ続く崖になっており高さは約20mほど有り落ちればまず助からないだろうという高さです。(学校や病院の屋上からダイブするような感じです。)
「ウワァァ-----。゚(゚´Д`゚)゚。-----ン!もうダメだ~~」と思ったらたまたま造成地のブロックを支える鉄筋が何箇所か出ておりそのうちの一本に運良くズボンのベルトが引っかかって崖から宙吊りのようになって止まりました。
その後、なんとか自力で友人のところに戻れましたが友人はあまりのショックで失禁していました。
本当にその節は驚かせて申し訳ないです。

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次はいろいろありすぎてどれにしようか迷ったのですがせっかくブログを山のことで立ち上げたのですから山に関する命からがらです。(本当は骨がバラバラになるような大事故がありますがこれは次回に)

私は今一緒に登山をしている友人とはかれこれ30年来の付き合いで最初の出会いはバイクからでした。
元々兄弟会社に勤めていたため友人とは顔見知りの間柄でしたが仲良くなったのは友人が私のバイクを見て「バイク好きなんや?それやったら今度一緒にツーリング行かへんか?」と誘ってくれたのがきっかけでした。
それからお互いを認め意気投合した私たちは年齢の差を越え、本当の友人ある意味兄弟のように付き合いだしました。(この話は結構いい話なので折を見て書き込みたいと思います。)
元々、私が登山を始めたのもこの友人がきっかけで最初はツーリングで訪れた乗鞍岳が原点となりました。
このツーリングには私や友人を含め、5~6人で行ったのですが乗鞍スカイラインで終わりのはずが私のそばに来た友人の悪魔の囁きでそこから登山をすることに・・・友人「なあ、時間も早いしあの山上らへん?」私「はぁ?いやいや結構あるやろ?おまけにみんなに意見を聞かんとあかんやろ?」というとしばらく辺を見回していた友人は「あ、あれ見てみい、あの人腰にお守りぶら下げているやろ?」そう言われて見てみると確かに木で出来た道中手形ぐらいの立派なお守りをぶら下げておられました。
それを見ていた友人はいたずらっ子のような顔をして「あのお守りな、山頂にある神社しか売ってへんねん。言うとくけど早よいかんと神主さんいつまでも山頂におらへんで。」と私を誘います。
疑い深い私はスカイラインにあるお土産物屋さんを片っ端から見て回りましたが確かに友人が言うとおり同じものはありませんでした。
そうなるとそこでしか手に入らないものが大好きな私はほかのメンバーを説得して無理から登りました。
当然登山用品は一つもなく靴もツーリングブーツだったので今から思えば無知からなせる無謀でしたがこれが私の登山原点となりその後、100以上の山々を登ることになったのです。
そしてこれもまた無謀なのですがその友人と一泊二日で上高地から奥穂高に登り、前穂高経由で岳沢から上高地に戻るというこれもまた恐ろしい計画で登ったのですが・・・まず、靴のことを何も知らない私は普通の靴(一応スポーツシューズでしたが)で挑んだため雪解け水で足をやられ本当は初日に奥穂高山荘まで行くはずが涸沢ヒュッテ止まり、それなら二日目はさっさと下りれば良いものを前穂高に寄り道するという無謀なことをしたため結構足に来ていたのか紀美子平手前の山道から滑落してしまいました。
おそらくボーっと歩いてたのでしょう、崖側の足を踏み外しバランスを失った私は約5mほど回転しながら落ちたのですが(バレリーナがくるくる回る感じ)幸いなことに5m程下に幅が約50cmほどの足場がありなんとかそこで引っかかって九死に一生を得ました。
そこで引っかかっていなければ今頃はこの世にいなかったことでしょう。
(その足場が無ければ完全に300~500m程は崖なので絶対に助からない場所でした。)
友人はもちろんのこと、後ろを歩いていた大学のワンダーフォーゲル部の女性たちは目の前の滑落事故を見て気を失った方もいらっしゃったようでその節は本当にごめんなさいです。

こうして不思議と命を永らえさせていただいていると生きているというより生かさせて頂いているという気持ちのほうが強くなってきます。
私が山にこだわり皆様にマナーを押し付けているのも遭難やその他の事故について解説するのも上記のように命があってよかったと心から思える場面に何回も遭遇しているからなのです。

最後になりますが前回の奇跡の邂逅で家庭の事情から2ヶ月ほど山を遠ざかっていたことを少し書きました。
実は私の家内が病に冒されたからなのですが病名は・・・・・・ガンです。
どこの部位かは家内のためにも敢えて言いませんが私は痛烈なショックを受けました。
自分のことなら大概の事を受け入れ、乗り越えてきましたが流石に身内がそのようなことになるとは夢にも思っていなかったので驚きを通り越えてただただ茫然自失の毎日でした。
経験のある方にしかわかっていただけないのでしょうが仕事をしていても勝手に涙が溢れてきます。
人はいつかは死んでいきます。なのでいつかはどんなに仲の良い夫婦でも別れる日が来ます。
頭では理解していても心はどんどん暴走していきます。
心の中でいつも自分を責める毎日が続きます。「何故、もっと早く気付かなかったのか?」自問自答の毎日です。
奇しくも病気が発覚したのは私が糖尿になった(認定された)日と同じ日でした。
それからの私は家内がしてくれたように用事がなくても仕事終わりに必ず病院に行き、例え一時間足らずでも家内のそばにいることを日課としました。
周りの人にはさぞかし優しいご主人と映ったことでしょう。しかし私にはそれしかできなかったのです。
家内といるときはたえず笑顔で接し、出来るだけおもしろい話題で家内を楽しませてから一人で帰る家路の虚しいこと、一人で食べる晩御飯は全く味気がせずテレビを見ていてもちっとも頭に入りません。
ちなみにガンにはステージというランクがありⅠ~Ⅳとaもしくはbに別れ、数字が大きくなればなるほど生存確率は大きく下がります。(家内はⅢのbでした。これがどれほどのものかは知っている人にはわかると思います。)
なので手術ではなく放射線治療抗がん剤治療の併用で治療していくことになりました。
不幸中の幸いであったのは主治医の先生と周囲の看護婦さん(敢えて看護師とは言わないなぜなら全員女性なので)たち全員がとてもいい人ばかりだったのでそこは安心して家内をお願いすることができました。
おかげさまで家内は奇跡的な回復を見せ、病巣がほとんどその痕跡を残さないほどになり、先生から「完治という言葉は5年後にしか使えないけど今は根治と言えます。」とおっしゃっていただきました。
今では退院してほぼ通常の生活を取り戻してくれたので私もまた山に行けるようになったのです。
だから私はテレビで見る北斗晶さんと佐々木健介の夫婦愛に心を打たれます。
健介さんの心の中が痛いほどわかります。
見ているだけで胸が締め付けられ涙が出てきます。
どうか無事に回復してテレビに復帰して欲しいと心から願います。

皆さんはどうですか?生きていますか?生かされていますか?どちらにしても世の中がどんなに辛くても少なくともあなたのことを心から生きてて欲しいと願う人が一人でもいてくれるのであれば必死で頑張ってください。
生きるのに理由なんて必要ありません。だって生まれてくるのに理由を持って生まれた人などこの世に一人もいないのですから・・・・・理由は成長に従い、自分や周囲の人が見つけていけばいいのです。
ただ、せっかくこの世に生まれたのだから生きられるだけ生きてみませんか?
どのみち人は必ず死にます。(これだけは万人に平等です。)
どう生きるかに重点を置く人もいればどれだけ生きれたかに重点を置く人もいるでしょう。
例え明日、地球が崩壊したとしても愛する人たちと一緒であれば幸せではないですか?
私は今回のことで自分の時より命の貴さや大切さを学びました。
テレビのCMのフレーズでいい言葉を見つけました。「相合傘、濡れている方が惚れている。」いいでしょう?
自分や周囲の人を愛し、山を愛しながらこれからも生きていきたいと思います。
私を生かしてくれた様々な偶然や人々、山と山の神様に感謝して今回の話を終わります。
ご清聴ありがとうございました。(文章なのにご清聴って・・・)
でわでは~~