うめぞーの山登りブログ

山登り大好きオヤジの回顧録です。

山登りと健康(山における事故について)

こんにちは~お昼を食べて元気もりもりのうめぞーです。

さて先程はギアについてうんちくを述べました。(といっても文句ばっかりで申し訳ありません。)
ギアについてはまだまだいろいろありますので次の機会に・・・
山登りの特典で少し抜けていたのでこの場をお借りして少し補足させてください。

まず体についてですが限定ですので前回書きませんでしたが荷上げする際、何も持たないのと荷物を持つのとでは筋肉の鍛え方に違いがあります。
荷物を持たない場合でもある程度は鍛えられるのですが持った場合、肩から僧帽筋、腹筋が特に鍛えられます。

次に精神面ですが山登りを始めるきっかけは人それぞれなのですが続けるきっかけとなった第一位は高揚感だそうです。
確かにいいお天気の日にきれいな景色を眺めると気分も高揚します。
現代社会は何かと精神を蝕まれることが多い中で運動で汗を流しご褒美に最高の景色が眺められる登山は現代の歪を埋める最高の手段と言えます。

さてここからが本題です。
タイトルにもあるように山登りの事故でうんちくを語りたいと思います。
といってもよく耳にする冬山での遭難とか難しいものではなく登山をする誰にでも起こり得る事故です。
それは道迷いです。
とこう書くと多くの方は「なんや~そんなん今は道標もしっかりしてるし難しい山行かへんし関係ないわ」と感じると思いますが違うのです。
道迷いはほんの少しのきっかけで誰にでも起こり得る怖いものなのです。
例えばアナタは今仲のいい友人と二人で山を楽しんでると仮定します。
選んだ山は近郊のよく通い慣れた里山(標高300m)です。季節は今頃春にしましょう。
道迷いしそうな枝道は数箇所あるものの道標もしっかりしているし何よりも通い慣れた山なので間違えようがないと思い込んでいます。
なので軽装、幸いにも天気に恵まれこの日は朝からいい天気、持ち物も小さめのリュックに手作りお弁当、飲み物ぐらいしか入れていません。
ただ今回は今まで登山口からピストンで帰っていたのを縦走して山の向こう側に行くことにしていました。
理由は山の向こう側に温泉があり一汗流したあとビールでも飲んでゆっくりしたかったからです。
もちろん時間的にも問題ありません。距離もそれほどなく縦走しても僅か7kmほどです。
縦走も何回かしていますので道も理解できています。
天気がいいので気分も高揚して友人との会話も弾みます。
もちろん低山なので体への負担も少なくバテることもなく山頂へたどり着きます。
お昼ご飯を食べて十分休憩も取れたのでボチボチ降りようかということになり午後2時に下山開始します。
下山ルートは山の中ということもあり特に景色に代わり映えがないのでもっぱら友人と恋バナを咲かせます。
ふと気が付くと目の前に分岐があり道標があると思われるところで他の登山客が数名話し込んでいたので「こんにちは~」と挨拶を交わしいつもどおり右へ折れます。
しばらく進むとまた分岐があるのですが本来ならあるはずの道標が見当たりません。
イメージ 1
(赤テープと黄色テープどっちが正しい?この道の先は?山の中はこんな場所いくらでもあります。)

「あれ?ここに道標無かったっけ?」アナタは少し不安になりますが勘違いかなにかの理由で撤去されたのかも?と思い二つ目の分岐は左という記憶を頼りに左へ進みます。
まあ、里山ですから多少間違えたとしても下りるところが少し変わるだけで後1時間もしないうちに向こう側の温泉地に出るはずだからと思い、また道も普通の山道であったことから躊躇なく友人と進みます。
友人と再びおしゃべりに夢中になりながら進むと小一時間程したぐらいで友人が「まだつかないの?」と聞いてきました。
そういえば最初の分岐からかれこれ一時間ほど過ぎている?もうぼちぼち木々の間から街並みがみえてくる頃なのにまだ周囲は鬱蒼とした山の中、おかしいなと思いながらもアナタはもう少し下れば街に出るはずとなんの根拠もないのにそう思い込み友人にも「あと少しで街に出るから頑張りましょ。」と告げます。
友人もまた道に不慣れであなたに任せっきりなのでそれ以上強気には出れず従います。
やがて30分も歩くとそれまで順調にあった山道が突然なくなります。
ただ行き止まりではなく3方向に細い獣道のような道はありますが・・・・さてどうします?
イメージ 2
(右にも左にも真っ直ぐにも行ける道・・・正解はどれだ?)

今から分岐まで戻るには少なくても一時間以上見ておかないといけません。(分岐までは当然上りです。)
そうなると明るいうちの下山は難しくなります。(仮に上って分岐まで一時間半、下りに一時間、現在午後3時半なので順調にいったとして下山口まで行くには午後6時を回る計算。
目の前にある細い道は不安だけど確実に下へ下っているのであと少しで街に着けそう(時間的にも)
街の方向は右側だから右へ進めば大丈夫。そう判断したあなたは嫌がる友人を説得して一番右へ進みます。
は~~~い、遭難確定です。とまあいとも簡単に遭難事故いっちょ上がりです。
わかりますか?こんなドラマチックに遭難なんて起きないと思っているアナタ、これは実際にあった遭難事故を私が脚色しただけで実例なんです。
山の中なんて特に景色がいい稜線でも歩いていない限り景色は代わり映えしません。
ボーっと歩いていたりおしゃべりに夢中になっていると道標を見落とすなんて結構ありがちなんです。
道標も六甲山系みたいに立派なものならそうそう見落としませんが中には山岳会の方が設置してくださった手製の小さなものもあります。(あるだけ大変ありがたいことなのです。設置するのが如何に大変かは実際そこへ行けば自分の足で体感できるでしょう。)
山の景色が似たような物で道幅が同じような道であれば誰にでも道間違いが起きて当たり前です。
ましてたま~にですが本線よりも脇道の方が立派な時があります。
そもそも道迷いのきっかけはほんの些細なことが原因ということがよくあります。
笑えない話ですがキジうち(う0こしに行くこと。女の子の場合はお花摘み、どちらも体制を想像してね。)しにいったっまま遭難した事例もあるぐらいです。
私自身何回も道迷いしています。(自慢にはなりませんが・・・・)ただ私と遭難者との差は普段から道迷いした時にはどうするかを常に考え装備を整えて山行しているので私の場合、大事には至っていないだけです。
私はどんな低山であろうが必ず地図・コンパス・電灯(ヘッドランプ2個、懐中電灯一個)ツエルト、非常食、着替え、飲料水は持っていきます。(最低一泊は可能にしています。)
道迷いで一番怖いのは迷うことではなく理性を失うことです。
迷ったとわかった時から如何に冷静に対応できるかが生きるか死ぬかの分かれ目となります。
たかが里山と侮るなかれ、迷った場所によっては人が行かないような場所が日本いたるところにあります。
今回のケース、実際の遭難者2名は本線から僅か300m外れた場所にいただけですがそれでもまる2日発見されず春先にも関わらず軽装であったため軽い凍傷にかかり極度の衰弱状態で後一日発見が遅れていればどうなっていたかわからなかったそうです。
では今回のケースどこに問題があったのでしょうか?振り返ってみましょう。

まず1番目、一人はよく知っている山だったがもうひとりは知らなかったこと。
意外と思う人が居るかもしれませんがこのケース、実はパーティ(2名以上のグループはパーティといいます。)では一番多いケースで一番モメるケースです。
しっかりした経験者のもとに作られたパーティでは滅多にないことですが俗に言う仲良しグループでは発言に差があり知ったかぶりをするおっちゃんやおばちゃんが牛耳っているパーティなどは悲惨です。
特にそういうグループのリーダー役はうるさ型のおっちゃんやおばちゃんが務めていることが多く人の意見を聞かず自分の言うことが正しいと思い込み冷静な判断ができない場合が多々あります。
よく単独行者が遭難しやすいという意見がありますが一概には言えず、確かに割合は単独行者が多いですがその多くは地図すら持たない初心者のくせに単独行動するという現代社会の縮図のような人が多くグループはこれまた適任者がリーダーを務めているケースは少なく大概何らかの権力者(会社の団体なら社長や部長、地域の集まりならその町の長老や権力者)が多く、これまた歪んだ社会の縮図と言えます。
なので単独行者は地図もなく相談する人もなく焦ってどんどん深みにはまりパーティの場合、よく山を知っている人の意見は通らず知ったかぶりの人に振り回されこれまた深みにはまるのです。

2番目、思い込み。
人間思い込みほど怖いものはありません。よく言うのが子供の時や若い時は人の意見に耳を傾け、取り入れようとしますが年を重ねるうちに人間が形成され経験値がモノを言うようになりなかなか人の意見を取り入れることができなくなります。
特に人の話を半分で遮り「あんたはそう言うけどここはこうやろ?」等人の話を遮ってまで自分の主張を通す方は要注意です。(道迷いした場合、間違いなく遭難するタイプと言えます。)
この場合道標があると思われる場所に人がいたけど知っている道だから迷わず右へ行きましたが山の中では常に「この道でいいのかな?地図で確認しようかな?」という気持ちが大事です。
地図とコンパスは取り出しやすいところに入れておき、おっくうがらずによく見る癖をつけておきましょう。
出来る登山者ほどよく地図を確認しています。

3番目、集中力の低下。
これはパーティほど多いですがおしゃべりに夢中になって分岐を見落としたり間違えたりが多いです。
分岐は丁字路とは限りません、確かに丁字路なら右か左かなので喋っていても立ち止まりますがまっすぐと右、まっすぐと左みたいに夢中になっていると通り過ぎるケースはいくらでもあります。
また、単独行者はおしゃべりしない代わりに考え事をすることが多いので見落としがちになります。

4番目、根拠のない行動。
俗に言う「まあいいか」です。例えば女性が編み物をしていて使う毛糸の色を少しだけ間違えたとき、本来なら間違えたところまで解いて編み直すのでしょうがもう少しで編み終わるとかあげる人が身内でまあいいか、となる場合とよく似ています。
先ほどのケースでも本来ならあるはずの道標が見当たらずここで来た道を引き返せば何も問題はないのに「せっかくここまできたのだから」等自分勝手な言い訳を設けて「まあいいか」に至るわけです。
例えば地図を見て本来のルートではないがこの先に枝道があり別の下山口に出るとわかって進むのであればこれは根拠があると言えますがこの先が何処へ行くかもわからないのにここまで下山したからあと少しとか根拠のない行動は即道迷いに直結します。
山も知らない山や高山になると人は不安から尾根筋に戻ることが多いのですが低山になるとなめてかかるのか?強引に下る人が多いです。
基本は知っている場所又はわかる道まで戻ることが正しいです。
結局、まあいいかは自分に対する言い訳でしかありません。

5、装備品不足。
これは本当に言語道断なのですが知っている山だからとか小さな山だからと山を舐めてかかり結局遭難となった時に何もなく夜ドンドン気温が下がり(山は夏でも気温が低いです。)寒さに凍え食料もないため体力を失い水もないので喉が乾いて眠ることもできず、真夜中なのに明かりもないので怖い思いをして一夜を明かすことになります。また夜が明けても地図もコンパスもないため正規ルートに戻れずいたずらに体力を消耗した結果、生還できなかったケースはいくらでもあります。

あとがき(私が感じることの総括)

私が常日頃思うのは山はそこにあるだけの存在なのです。
山をどう捉えるかは人間の感情であって山はそんなことに一切関係ありません。
山はいつでも我々を迎え入れてくれます。逃げることも拒むこともしませんが同時に助けてくれることもありません。
我々は山に畏敬の念を抱き、尊敬し大切にするからこそ山の恩恵を与えてもらえるのだと思います。
山へ登ると言うことは非日常の世界へ足を踏み入れるということです。
そこでは我々の日常は通用しません。実社会で総理大臣であろうが会社の社長であろうが山では一切関係ありません。
だからこそ山に対する魅力は尽きないのです。自分の足で訪れた者たちだけが見ることのできる世界。
昨今はテレビが普及してリアルな山を垣間見ることはできますが風は?小鳥のさえずりは?そこに咲く花の匂いは?生息する動物たちの息遣いは?・・・・そうです、これらは実際にその地へ立たないとわからないことばかりです。
だから山への憧れは日に日にますばかりなのです。
山へ行ける喜び、これを満喫するにはどうしても避けて通れないもの・・・それは家族の理解と協力です。
やはり昨今これだけ遭難が多いと自分の親・兄弟・息子・娘が万が一・・・そう思うと素直に「行ってらっしゃい」と言えるでしょうか?言ってもらえるでしょうか?
そうなるにはまず自分の身を律しなければならないと考えます。
私の誓いに「山を傷つけない。人に迷惑をかけない。」があり山は大切に遭難して人に迷惑をかけないよう心がけています。
そんな私でも道迷いで苦労したことは一度や二度ではありません。
ただ、いつも冷静に判断してきたからこそ大事にはいたりませんでした。
みなさんももし道迷いした際はここの文章を思い出し冷静に行動してください。
皆さんにとって山が素敵な場所でありますよう心から願いながら次のブログに進みたいと思います。
ではでわ~~